9/04/2023

米人教授が聞き取ったヒデオさんの戦争体験④

園田英雄さん 消えない戦争の記憶④

進駐軍は隣り組 米兵が土足で家に 



 前回の「園田英雄さん 消えない戦争の記憶⓷」では、大分市が受けた空襲被害について少し書いてみました。

 今回は日本が降伏し、米軍の占領が始まる頃の大分がテーマです。

 米軍の大分進駐と同時に、園田英雄さん(故人)は米兵2人がいきなり自宅に踏み込んで来るという経験をしました。

 「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」(エドガー・A・ポーター ランイン・ポーター著 菅田絢子訳 みすず書房)に、その証言があります。

 10月13日、到着した進駐軍が兵舎の西大分駄原の陸軍少年飛行兵学校(※)に入ってまもなく兵士がふたりやってきました。武器を隠してないか一軒一軒調べていたのです。押入れを開けたり箪笥を開けたり。作業は鄭重なものでした。ただ腹が立ったのは靴履きで上がってきた!(笑)

 ※大分連隊が宮崎県都城市に移り、そこに1943(昭和18)年秋に少年飛行兵を養成する学校ができ、終戦とともに閉校になりました。

 大分にやって来た米軍は当面の宿舎として、終戦で閉校となった大分陸軍少年飛行兵学校(その前は大分連隊)の兵舎を使うことになりました。

 左は1921(大正10)年の大分市の地図の一部です。昔の地図を見ると志手の集落と大分連隊の位置関係がはっきりします。園田英雄さんが住んでいた志手は、大分連隊の“隣り組”になります。駐屯にあたり米兵は周囲に危険がないか調べに来たというわけです。

 ※ちなみに冒頭の写真は大分連隊跡とその周辺の現在の様子です。兵舎跡には大分大学教育学部付属小・中学校などができ、練兵場跡には大分市営駄原総合運動公園や大分県立大分西高校などがあります。


カービン銃を携えた米軍、緊張の顔合わせ

 

 米軍の大分進駐について1988(昭和63)年発行の「大分市史 下」(大分市史編さん委員会)から少し引用してみようと思います。

 連合軍=米軍による大分の占領が始まったのは昭和20年10月4日である。この日、米第5海兵師団(佐世保)所属のH・E・ベーカー大尉ら4人が先遣隊として列車で大分駅に到着、その足で県庁を訪ね、中村知事ら県終戦事務連絡委員会と占領軍受け入れについての打ち合わせを始めた。

 打ち合わせといっても、カービン銃を携え、拳銃を卓上に置いてのことで、時には気色ばみ、荒い声も出したというから、一方的な命令に終始したのだろう。

 大分市史では、日米関係者による緊張した初顔合わせの様子を上のように書いています。

 米軍を迎える大分県民は米兵に不安、恐怖心を抱いていましたが、米側も日本側の抵抗を警戒し、不信感、不安感がぬぐえずにいたのでしょう。

 大分市史は、ベーカー大尉は県外務課に、大分合同を含む新聞4紙の全紙面を毎日英文に翻訳して提出せよと無理難題をもちかけたが「殺されてもできん」と蹴ったこともある、というエピソードも紹介しています。

 相互不信による緊張も徐々に緩和されていくのですが、大分市史にはもう一つ興味深い話が載っていました。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

宿舎変更 大分経専校舎から旧兵舎に

 
 大分市史によると、米軍は当初、宿舎には上野丘の※大分経済専門学校校舎(現県立芸術短大敷地)を充てるつもりだったそうです。

 ※大分経専は大分大学経済学部の前身で、官立の大分高等商業学校(大分高商)として1922(大正11)年に開校。1944(昭和19)年に大分経済専門学校に名称変更された。

 理由は、明治年間に建てられた大分連隊よりは新しく衛生的に見えたからだ、といいます。

 これに対して、終戦事務連絡委員会の事実上のプロモーターであった長沼秀夫が「この建物は教育に必要なので、接収はやめてほしい」と粘った、と大分市史は書いています。

 市史によると、幸い米軍の連絡将校に長沼が学んだカリフォルニア大学時代の友だちがいて、かろうじて接収を免れたそうです。

 長沼秀夫という人物は何者か?興味が湧いてGoogleで検索してみましたが、目ぼしい情報は得られませんでした。

 仮に進駐軍が大分経専の校舎を宿舎に使っていたら、進駐初日に志手集落の家々に土足の米兵が踏み込むこともなかったかもしれません。

 

 とはいえ、仮に旧兵舎を米兵の宿舎に使わなくても、米兵が志手界隈に姿を見せるようになることは変わらなかったでしょう。旧陸軍の射撃場があり、これを米軍は使いました。

 上の写真は旧射撃場の内と外を隔てた土手です。一部が残っており、桜が植わっています。 

アメリカ人は贅沢 日米の違いを見る

 
 
 「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」の中で、日米の軍隊の違いについて園田英雄さんの以下のような証言があります。

 (右の写真はやまばと児童公園にある大分連隊の碑)

 日本軍の訓練はまさに非人間的。ひとりの兵隊が「班長殿! 頭が痛いんですが」などと言おうものなら「貴様、敵さんに頭が痛いから待ってくれなどと言えるか」とボコボコにされる。

 実弾射撃では日本の場合、一発撃って的に当たると合図がある。薬莢(やっきょう)も大事に使います。アメリカ兵は自動小銃を連射して撃ちまくって薬莢もそのままです。

 守衛の日本兵は「気を付け」の姿勢で立っていたけれど、アメリカ兵はガムを噛みながら通りかかったぼくらに「ヘイ、ボーイ、ヘイ、ボーイ」といってガムをくれる(笑)
 
 戦中と戦後では兵隊の緊張感も違うでしょうが、それにしても日米の大きな差を目の当たりにして、その印象が深く心に刻まれたようです。

 園田英雄さんは志手老人クラブ共和会が発行していた「ふるさとだより」にも何回か自らの戦争体験を書いています。

 1998(平成10)年7月発行のふるさとだより第2号には「風化する戦士碑-旧陸軍墓地の夏」と題して、2005(平成17)年5月のふるさとだより第17号には「練兵場の思い出」のタイトルで、それぞれ自らの経験を語っています。

 ふるさとだより第17号に掲載された「練兵場の思い出」では、「戦時下、占領下の日常 大分オーラルヒストリー」にある証言がもう少し詳しく書かれています。


1年2カ月後 進駐軍は別府に引っ越し


 大分に駐留した米軍についてもう少し詳しく見てみたいと思います。

 「大分市史 下」によると、1945(昭和20)年10月13日に旧大分連隊兵舎に入ったのは第5海兵師団第5戦車大隊でした。第5戦車大隊は11月に佐世保に引き揚げ、第32歩兵師団所属砲兵部隊がそのあとに入りました。

 翌1946(昭和21)年2月には第2海兵師団第2連隊と交代、続いて第24歩兵師団第19連隊が進駐、12月15日に別府市にキャンプ・チカマウガができるまで旧大分連隊兵舎に駐留した、と「大分市史 下」にあります。

 大分市史には第2海兵師団第2連隊と第24歩兵師団第19連隊の交代時期については書いてありませんが、「戦時下、占領下の日常、大分オーラルヒストリー」(みすず書房)に交代時期についての記述がありました。

 同書には、第19連隊は5月に大分市に入ってきて、第6海兵隊と取って代わった、とあります。

 「大分市史 下」にある第2海兵師団第2連隊と第6海兵隊は同じ部隊なのか、米軍についての知識が乏しいのでよく分かりませんが、5月に第19連隊が入ってきたことは分かりました。

 当初、駐留部隊が短期間で交代していましたが、第19連隊はその後長く駐留することになります。米側の日本占領体制がこの頃に整ってきたのだろうと思われます。

 右上の記事は大分合同新聞の1946(昭和21)年7月2日付のものです。7月4日の米国の独立記念日に別府市内で祝賀行進を行うことを告知する記事です。

 記事では第19連隊の歴史が紹介されています。本部隊は古く1861年5月4日発布のアブラハム・リンコルン大統領の布告に始まったとし、輝かしい戦歴が説明されています。

 記事のポイントは、最後の「レンス連隊司令官は別府、大分地区住民の祝賀行進を参観せんことを希望している」というところです。

 住民との距離を縮める宥和策といえます。「戦時下、占領下の日常」の筆者は「このパレードが大分の占領におけるひとつの転換点だった」と位置付けています。


 第19連隊は1946(昭和21)年12月、現在の別府公園(上の写真)に造られたキャンプ・チッカマウガに移ります。米軍が志手の住民の「隣り組」だったのは1年2カ月でした。

 写真の小さな白い案内板に「キャンプ・チッカマウガ」についての説明があります。

 

 

 

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